とある一日にふと思ったこと

1日は24時間。これは全ての人に平等。

時間の使い方は人それぞれ。1分1秒同じ行動をしている人はいない。

ぼくはどんな時間の使い方をしているだろうか。

朝起きて、仕事して、お昼を食べて、また仕事をして、仕事が終わったら夕飯を食べて、お風呂に入って、ゲームや本を読んでくつろいで、寝る。

大体がこんな毎日。つまらないわけじゃない。土日は友達と遊んだり、妻と出かけたり有意義に過ごしてる。とても幸せだと思う。

でも、満足はしていない。これが死ぬまで永遠に続けばいいけど、そんな保証はどこにもないし、絶対に無理だと分かっている。

幸せだけど、不安はつきない。どうしてだろうか。

仕事をしていても、面白くない。誰でもできる仕事だから、自分じゃなくてもいいと思ってしまう。でも、仕事があることは幸せだ。それで生きていくことができるから。少なくとも、会社の役には立っているし。

友達と遊んでいると、とても楽しい。気の合う仲間とご飯食べたりゲームしたりする時間はとても充実していて、無くてはならない時間だ。でも、心の隅の隅で「こんなことをしていていいのだろうか」と焦る自分がいる。遊んでいる時間に、他にやらなきゃいけないことがたくさんあるのではという不安がくすぶっている。

妻と出かけているときもそうだ。とても楽しく、幸せだ。いつまでも妻の笑顔を見ていたいし、たくさんのところへ出かけたい。でも、いつまでもこうしていられないという不安がやはりある。幸せをただ消費しているだけのような気になる。

小さな不安や焦りを無視することもできる。押しつぶして生きていくこともできる。だけど、それは見えないようにするだけで決して無くなることはない。ずっと存在し続ける。その存在に気づいてしまった以上、もう逃げられない。走っても走っても遠くから追いかけてくるのが見える。すぐには追いつかれないだろうけど、少しずつ少しずつ、距離は縮まっている気がする。

それはきっと、ぼくがなにも生産していないからだ。時間を消費し、お金を消費し、幸せを消費しているのに、なにも生み出していないからだ。

だからぼくは、生産することにした。パソコンで文字をカタカタ打つのが好きだったから、ブログを始めてみようと思った。

拙いけれど、少ないけれど、ブログを書くことで着実に生産活動ができている。自分の起こした行動をブログに書くことで、なんだか不安との距離が離れた気がする。

ブログだけが生産じゃない。小説を書くことも、歌をつくることも、絵を描くことも、動画をつくることも生産だ。

まずは小さなことから。なんでもやってみようの気持ちでやろう。